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賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い

賤ヶ岳は滋賀県伊香郡木之本町と余呉町との境で琵琶湖の北岸にある山です。
頂上からの眺めは美しく西側は左手に琵琶湖、右手に余呉湖を見ることができます。

柴田勝家と羽柴秀吉は織田信長の重臣でした。しかし信長が本能寺の変で亡くなった後の跡継ぎ問題で二人の仲はだんだんと悪くなっていきました。

1583年4月、賤ヶ岳で北庄城主(越前)の勝家と長浜城主(近江)の秀吉(後の豊臣秀吉)と決戦を交えました。

秀吉は、賤ヶ岳の難所に勝家を誘い出し一挙に攻撃をしかけたのです。勝家は雪の多い冬の間は戦いにくいので、秀吉と円満に話し合いで解決しようとしましたが失敗に終わりました。燃える北庄城(きたのしょうじょう)で勝家とお市の方は自害しました。

この戦いで特に活躍した加藤清正・福島正則・加藤嘉明・片桐且元・平野長泰・脇坂安治・糟屋武則を「賤ヶ岳の七本槍」といいます。

この戦いで秀吉は天下一の支配者となったのです。

(その時の勝家の妻はお市の方(信長の妹)ですが、お市の方の前夫は浅井長政でした。
1573年小谷城主浅井長政(近江)は織田信長の命で羽柴秀吉が攻撃し滅びました。(姉川の戦い)
その後、お市の方は兄である信長の清洲城(尾張)に住むようになりました。秀吉から結婚を申し込まれましたが秀吉は前夫を死に追いやった憎きかたき…そんなとき織田信孝(信長の三男)のはからいで子供達を連れて勝家の元へ嫁ぐことになったのです。)

☆☆お市の方の娘たちのその後☆☆

お市の方のはからい(死ぬ前に秀吉に手紙を書いた)で娘3人(浅井長政との子)は秀吉の保護を受けることになりました。(信長の姪にあたるため)

長女茶々は、大阪城主の太政大臣に出世した豊臣秀吉の側室として暮らすことになりました。(実はすごくいやだったんです。でも命令には逆らえないのでしかたなく)
正室は、北政所(きたのまんどころ)ねね。しかし、秀吉との間に子供があったのは茶々だけでした。長男が生まれる前に淀城(よどじょう)に移り淀君(よどぎみ)と呼ばれるようになります。(長男は3歳で病死、次男は秀頼)

**秀吉と茶々は30歳も年の差があるんですね。びっくりです。

次女のおはつは京極高次と結婚しました。(実は茶々と高次は結婚の約束をしていたのです…)

妹のおごうは3回目の再婚で徳川秀忠の妻であり徳川家光の母です。

徳川家康が関が原の戦いで豊臣方を破り天下統一をし、江戸幕府を開きます。
おごうの娘千姫と茶々の二男秀頼と政略結婚しています。(いとこ同士ですね)
しかし、家康の罠に落ち茶々と秀頼は燃える大阪城で自害しました。

**この姉妹を思うとどんな思いだったか…悲しくなりますね。
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